『沙石集』でツチノコの元ネタを読む!徳のない僧は蛇の妖怪「野槌」に生まれ変わる?

『沙石集』でツチノコの元ネタを読む!徳のない僧は蛇の妖怪「野槌」に生まれ変わる? 古典
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 日本の代表的なUMA(未確認動物)といえばツチノコです。ツチノコは、胴の中央部が膨らんでいる蛇で、北海道と南西諸島を除く日本全国で目撃例が報告されています。1970年代にブームが起こり、多くの小学生がツチノコを捕まえようと躍起になりました。

 そんなツチノコの元ネタは「野槌(のづち)」です。野槌は、蛇のような体に大きな口だけのある妖怪です。鎌倉時代後期の仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』にも野槌の記述があります。以下がその引用(「学匠の畜類に生るる事」の冒頭)です。

 山に二人の学匠(がくしやう)ありけり。同法にて、年齢も心操(こころばせ)振舞もよろづ変らず。学問も一師のもとにて稽古しければ、ことに見解(けんげ)も同じ。何事につけても同じ体なりけるゆゑに、二人、契りて云はく、「われら一室の同法たり。よろづ変らず振舞へば、当来の生所(しやうじよ)も同じ報にてこそあらめ。先立つことあらば、生所を必ず告ぐべし」と、よくよく互ひに契りぬ。
 一人他界して、夢に告げて云はく、「われは野槌と云ふものに生れたり」と言ふ。野槌と云ふは、常にもなき獣(けだもの)なり。深山の中にまれにありと云へり。形大にして、目鼻手足もなし。ただ口ばかりあるものの、人を取りて食ふと云へり。
 これは、仏法を一向名利のために学し、勝負諍論(じやうろん)して、あるいは瞋恚(しんい)を起こし、あるいは怨讎(をんしう)を結び、憍慢(けうまん)勝他(しようた)などの心にて学すれば、妄執の薄らぐこともなく、行解(ぎやうげ)のおだやかなることもなし。さるままには、口ばかりはさかしけれども、智慧の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかる恐しき者に生れたるにこそ。

 文法的な難解さのない文章ですが、仏教用語が多く、中学生や高校生には難しく感じられるかもしれません。そのため、今回は用語をていねいに解説していきます。

幽美狐
幽美狐

今回は問題を出さないので、古文常識を身に付けるための読み物だと思ってくださいね!

二人の学問僧はどんなことを約束したか?

山に二人の学匠ありけり。同法にて、年齢も心操(こころばせ)振舞もよろづ変らず。学問も一師のもとにて稽古しければ、ことに見解(けんげ)も同じ。
【口語訳】山に二人の学問僧がいた。修行仲間で、年齢も心がけも振る舞いも万事につけて変わらない。学問も一人の師のもとで学んだので、特にものの見方も同じ。

 二人の学問僧は、何もかもが同じだといいます。

「学匠(がくしょう)」は「学問修行を専門とする僧」です。「がくしょう」という読みに「学生」の漢字を当てる場合も同じ意味です。

「同法」は「同じ師について仏法を修行した仲間」です

「よろづ」を副詞として使う場合は「万事につけて」という意味になります

「稽古」は「学問を学ぶこと」です。

「見解」は仏教では「けんげ」と読み、「ものの見方や考え方」を意味します。「解」を「ゲ」と音読みする場合、「解き放つ」と「説明や解釈」の意味があります。特に「解き放つ」の意味では、仏教用語の「解脱(げだつ)」を覚えておきたいところです。「解脱」は「煩悩から解放されて悟りの境地に至ること」を意味します

幽美狐
幽美狐

「解脱(げだつ)」は「解説(かいせつ)」と字が似ているので混同しないようにしましょう。

何事につけても同じ体なりけるゆゑに、二人、契りて云はく、「われら一室の同法たり。よろづ変らず振舞へば、当来の生所も同じ報にてこそあらめ。先立つことあらば、生所を必ず告ぐべし」と、よくよく互ひに契りぬ。
【口語訳】何事についても同じありさまだったため、二人は、約束して言うには、「私たちは同じ部屋の修行仲間だ。万事において違いがないように振る舞うので、来世で生まれ変わる所もきっと同じ結果になるだろう。先に死ぬことがあれば、生まれ変わった所を必ず告げよう」と、念には念を入れて互いに約束した。

 何もかもが同じ二人の学問僧は「先に死んだ方が、生まれ変わった所をもう一方に知らせる」という約束をしました。

「体」は「てい」と読み、「ありさま、姿」を意味します。現代でもこの意味は残っていて、「体裁(ていさい)」は「外見」「見栄」などを、「体(てい)たらく」は「好ましくないありさま」をそれぞれ意味します。

「契りて」の「契る」は「約束する」という意味です。男女間で契る場合は、単なる口約束だけでなく、肉体的な交わりも考えられます。ただ、今回は男性の僧二人なので、単なる口約束だけでしょう。BL展開にしたい方はご自由にどうぞ(笑)

「当来」は「来世」と同じです。来世は死後の世界を意味します。また、「生所(しょうじょ)」は「来世で生まれ変わるところ」です。悪いことをした人は地獄や餓鬼道などに、正しい修業を行った人は極楽にそれぞれ生まれ変わります。

「同じ報にてこそあらめ」は「こそ~め(推量の助動詞「む」の已然形)」で係り結びです。意味は強意なので「きっと~だろう」と訳せます。「報」は「応報」の意味で、「結果」などと訳せばいいでしょう。

幽美狐
幽美狐

細かい文法事項の確認としては、「振舞へば」と「あらば」の違いを理解しましょう。「振舞へば」の「振舞へ」は、ハ行四段活用動詞「振舞ふ」の已然形です。「已然形+ば」なので「~なので」(順接の確定条件)と訳します。一方、「あらば」の「あら」は、ラ行変格活用動詞「あり」の未然形です。「未然形+ば」なので「~ならば」(順接の仮定条件)と訳します

学問僧が野槌に生まれ変わったのはなぜ?

一人他界して、夢に告げて云はく、「われは野槌と云ふものに生れたり」と言ふ。野槌と云ふは、常にもなき獣なり。深山の中にまれにありと云へり。形大にして、目鼻手足もなし。ただ口ばかりあるものの、人を取りて食ふと云へり。
【口語訳】一人が死んで、夢に告げて言うには、「私は野槌というものに生まれてしまった」と言う。野槌というのは、普通にいるわけではない獣だ。深山の中にまれにいるという。姿は大きく、目鼻や手足もない。ただ口だけがあるけれど、人を取って食べるという。

 先に死んだ学問僧は、野槌という妖怪に生まれ変わってしまいました。

これは、仏法を一向名利のために学し、勝負諍論して、あるいは瞋恚を起こし、あるいは怨讎を結び、憍慢勝他などの心にて学すれば、妄執の薄らぐこともなく、行解のおだやかなることもなし。
【口語訳】これは、仏法をひたすら名誉と利益をもとめる欲求のために学び、勝負して言い争って、あるいは怒りの心を起こし、あるいは怨み、おごり高ぶって他人に勝ろうとするなどの心で学ぶので、迷いが薄らぐこともなく、仏法修業が穏やかであることもない。

 野槌になってしまったのは、世俗的な欲望や負の感情に囚われて、正しく修業しなかったからだといいます。

「一向」は「ひたすら」という意味の副詞です

 他の難しい言葉の意味は以下にまとめます。いずれも古語ではなく現代語ですが、普段の生活では聞きなれない言葉だと思います。

言葉 読み 意味
名利 みょうり 名誉と利益を求める世俗的な欲求。「名聞利養(みょうもんりよう)」の略。
諍論 じょうろん 言い争うこと。
瞋恚 しんい 自分の心に逆らうものに怒り恨むこと。
怨讎 おんしゅう かたきとして怨むこと
憍慢 きょうまん おごり高ぶること。
勝他 しょうた 常に他人に勝ろうとする心。
妄執 もうしゅう 迷いの心から物事に執着すること。
行解 ぎょうげ 仏法を修行して、その教えを正しく理解すること。
さるままには、口ばかりはさかしけれども、智慧の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかる恐しき者に生れたるにこそ。
【口語訳】そういう状態にあっては、口だけは利口ぶっているけれども、真理を見極める眼もなく、信頼の手もなく、道徳規範の足もないために、このような恐ろしい者に生まれてしまったのだろう。

 野槌の恐ろしい姿が描写されます。

「さるままには」は「然有ままには」と漢字表記し、接続詞のようにつかいます。「そういう状態にあっては」という意味です。

「さかし」は、「賢し」と漢字表記することからもわかる通り、「賢い」「気が利いている」などの意味があります。しかし、「利口ぶっている、生意気だ、こざかしい」という悪い意味もあり、こちらで訳すべき場合が少なくありません。今回も悪い意味で訳しましょう。一方、「賢し」を「かしこし」と読むときは「賢い」「立派だ」などの良い意味しかありません

「智慧(ちえ)」は「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」を意味する仏教用語です。簡単に言えば「気づき」です。

幽美狐
幽美狐

「にこそ」の後ろには「あれ」「あらめ」などが省略されています。このように、係助詞の後ろが省略されることを結びの省略といいます。ちなみに、「生れたるにこそあれ」に接続助詞の「に」が接続すると、「生れたるにこそあるに」となります。已然形「あれ」が連体形「ある」に変わっています。これは結びの消滅(流れ)といいます。結びの省略と結びの消滅を区別しましょう。

「野槌」の名前の由来は記紀神話の女神?

 野槌は、物を打ったり潰したりするのに使う工具の槌(つち)に似ています。その形から「野の槌」なのかと思いきや、名前の由来はそう単純ではないようです。

「野槌」は、野の精霊を意味する「野つ霊(ち)」、さらには「野椎(のづち)」に由来します。

 野椎は、『古事記』『日本書紀』に登場する草の女神・カヤノヒメの別名です。記紀神話からカヤノヒメの姿はわかりません。しかし、夫のオオヤマツミが蛇の姿をしているという説から、カヤノヒメも蛇の姿をしていると考えられます。

『沙石集』でツチノコの元ネタを読む!徳のない僧は蛇の妖怪「野槌」に生まれ変わる?

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』「野槌」(画像はWikipediaより)

 仏教では、カヤノヒメが惑わしの神などを産んだとされ、野椎自身も妖怪にされてしまったそうです。民俗学者・柳田國男は著書『妖怪談義』の中で、零落した神が妖怪であると主張しました。野椎は柳田が考えた通りの妖怪といえるでしょう。

 他にチの付く神としては、ヲロチ(大蛇)、ミヅチ(蛟)、イカヅチ(雷)などがいます。チは蛇や爬虫類のような姿とされていたようです。平安時代には、『新撰字鏡(しんせんじきょう)』で「蠍」(さそり)が、『類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)』で「蝮」(まむし)が、それぞれ「ノツチ」と読まれています。当時から、野椎がさそりやまむしのようなものとして考えられていたのがわかります。(詳しくは國學院大學「神名データベース 野椎神」参照)

 江戸時代中期の画家・鳥山石燕(とりやませきえん)は妖怪画集『今昔画図続百鬼』で野槌を描きました。そこに記載された解説は次の通りで、『沙石集』をふまえたものです。

 野槌(のづち)は草木(さうもく)の霊(れい)をいふ。又沙石集(させきしふ)に見えたる野づちといへるものは、目も鼻(はな)もなき物也といへり。

「ツチノコ」は野槌の別名「槌の子」「土の子」が元になりました。京都府、三重県、奈良県、四国北部などの方言だったそうです。

狸雄
狸雄

ツチノコって最近登場したUMAだと思ってたけど、かなり昔から信じられてきた妖怪だったんだね。記紀神話のカヤノヒメが仏教で妖怪にされたなんて、おいら、まったく知らなかったよ。

幽美狐
幽美狐

ツチノコブームのきっかけは、芥川賞受賞作家・田辺聖子さんの『すべってころんで』なんですって。1972年から朝日新聞夕刊に連載されたこの小説で、主人公の太一がツチノコ探しをするのよね。翌年にはNHKでドラマ化されて、ツチノコはあっという間に日本中に広まったのよ。

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